白田秀彰著『性表現規制の文化史』を読みました。

白田秀彰著『性表現規制の文化史』(亜紀書房)を読みました。

「性表現規制を考えるならこの本がいい」とずっと前から言われていたのですが、読むタイミングがなく、この時期になってしまいました。

 

 この本は大まかに、「わいせつ」や「ポルノ」という言葉の語源、アメリカ、イギリスにおける性表現規制の歴史、日本における性表現規制の歴史をまとめた本です。

 個人的に興味深かったのは、「わいせつ」というものは、語源からして、日本でも欧米諸国でも、おおよそ「庶民の生活のだらしない様子」、「暗くじめじめした様子」を指す言葉であったとされ、そのため、「わいせつ」禁止というものは、上品な貴族から押し付けられた規範であることを前提としていたことです。確かに、現代においても、「インテリ」「学者」「フェミニスト」といったいかにも高尚そうな人が「わいせつはいけない」「エロはダメだ」などの規範を発信し続けていることからすると、「押し付けられた」規範であることは現代でも変わらないのではないかと考えさせられました。

 歴史の部分に関しては、大まかに、ギリシャ、ローマ、江戸時代までの日本では、性というものに関して寛容な時代であったにもかかわらず、キリスト教的価値観が流入し、「性はいけないもの」と協議を解釈することによって、性や性表現を禁止する、禁止すべき規範が形作られていった。さらに、この「性はいけない」と宗教的に解釈されたことから、性表現を禁止する法律の制定に向かい、キリスト教信者(キリスト教右派、保守派)と表現の自由や司法との対立に向かい今に至っているという法制史が述べられています。

 この性表現規制と裁判に関して興味深かったのは、性表現に関する裁判にキリスト教右派の意見を入れさせるためにキリスト教右派の団体が「法廷助言者」(日本で言うなら「証人」でしょうか)として団体のメンバーを送り込んでいたということです。すなわち、アメリカの裁判例においても、キリスト教右派の意見が多分に取り入れられており、アメリカにおいても憲法解釈がゆがめられていたおそれがあるということです。日本の最高裁アメリカなどの海外の判例の動きを考慮するようですから、もしかすると、日本の刑法175条と憲法21条1項に関する裁判例もこのような宗教にゆがめられたものかもしれませんね。

 また、性表現規制を行う根拠というものとして、性表現を放置すると人に悪影響を及ぼすといわれることがあるのですが、学術的な調査を経ても性表現で人に悪影響を与えることはないということになっており、青少年に対する影響についても「きちんとした調査はできていないが影響あるかも」くらいに終わっているということが書かれています。私としても、性表現規制を行う根拠はないのではないかと思っていたのですが、まさか青少年に対してまで影響がないのではないかと言われるとは思っていませんでした。となると、青少年保護のための「悪書」追放運動に関しても、根拠がないのではないかと考えさせられました。

 この本は、コミケに出品した論文集が元ネタになっているらしく、「サムザーがやられたようだ……」「ふふふ、サムザーなど四天王の中でも最弱!」といったパロディがちょこちょこ盛り込まれています。

 ただ、参考文献がきちんと引かれており、この本に書かれているような歴史や根拠の怪しい性表現規制が行われてきたというのも事実のようです。

 

 

 

 

古書店で見つけたのですが、赤川学の本にも関連したことが書かれているのかもしれません。