『炎上社会を考える』(中公新書ラクレ)を読みました

ツイッターでよく見かける「炎上」問題について考えるために読んでみました。

著者は伊藤昌亮さんなんですが、吉野家の「生娘シャブ漬け」で炎上した伊藤正明さんとは別人です。

 

 この本は炎上社会の成り立ちを説明したもので、個別の炎上が良いとか悪いとか評価しているものではないのですが、「寛容なリベラリズム」を志向していく考えを取っているようです。本書で「寛容なリベラリズム」についてきちんと定義は書かれていないのですが、「不寛容なリベラリズム」を「リベラリズムの考えに立脚しつつ、他人がリベラリズムに反することをした点を理由に人を徹底的に排除する」思想ととらえたうえで、それらを排除しない考え方と定義されると考えられます。

 確かに、「女性差別的」表現の排除を求める批判というものも、どこかリベラリズムに反する、あるいはジェンダー思想に反するということでツイッター上で繰り返し炎上し、言い争いをしているという現状があります。

 この状況が発生してしまうのは、単なるリベラリズムのせいではなく、「不寛容なリベラリズム」によって引き起こされてしまう問題ではないかと考えさせられます。というのも、彼らやツイッターのユーザーには「規範意識の形成」が目的にあり、その「規範意識」の中でで法律よりも高いハードルである道徳に従った行動が求められてしまい、「不寛容なリベラリズム」を指向する人からはミスをした人は排除すべき対象となってしまい、炎上へとつながってしまうという背景があるからです。

 そのため、ツイッターで「炎上」を見かけても、直接の人間の被害者が居なければ参加しないという心がけが「炎上」と付き合ういい手段ではないかと考えるようになりました。

 また、興味深かったのはこの「規範意識の形成」というものについて刑事学の教科書で社会が厳罰化に向かう(良くない)原因として取り上げられており、「炎上」というものが刑事学につながる話だったということです。例えば、侮辱罪について厳罰化しようとしているのは、「ネット上で誹謗中傷を行ってはならない」という社会的メッセージを発するために行うとされているのですが、このように「規範意識の形成」を目的に厳罰化した場合、罪に見合わない責任を負わせることにつながりかねないため、警戒する必要があるということです。

 そのため、「炎上」問題について警戒するばかりでなく、「規範意識の形成」という世の中に悪影響を及ぼすものについても警戒すべきではないかと考えさせられます。

 

 

今回読んで参考にした刑事学の本